鴻鵠の志なんか知らない

人生無計画ガチ勢の悪あがき

趣味

「私は、もう50年くらい、合気道をしているけれど、今だに何もわからないよ」

 

 これは、先日、いつもとは違う道場で稽古をした時にたまたま組ませて技をさせていただいた老人の言葉だ。この言葉自体は自虐交じりで、そんなに重い雰囲気もなく発せられたので、おれもその場では何も感じなかった。

 その老人は、合気道を学生の頃に始め、50年以上続けているらしい。たしかに、見た目はずいぶん老けていて、70歳くらいと言われてもまったく不思議はない。

 

 俺の趣味は合気道だ。今の所、この趣味をやめる気は無いし、たぶん、体が持つ限り続けると思う。すると、俺もいつかは70歳や80歳になって合気道の稽古をする瞬間があるわけだ。

 そんなことを考えた時、先ほどの老人の言葉が、たんなる謙虚さや諧謔とは別の意味を持って感じられた。つまり、あの老人は一生をかけて合気道をして、それでも自分は何もわかってないといったのだ。

 俺だって合気道のことは何もわかってないし、稽古のたびに不甲斐ない思いでいるけれど、それは、いつか上手くなれるという希望の裏返しに他ならない。だからこそ自虐的な言葉を衒いもなく言えるんだ。じゃあ、あの老人にはそういった希望があるのだろうか?いやないと思う。

 べつに、あの老人をバカにしてなんかいない。むしろその逆で、おれは「何もわからない」という言葉を衒いもなく発することのできた老人を尊敬している。はたして俺は自分が70歳になってそれでも合気道が下手な時、あんな風に「俺は何もわかってない」といえるだろうか?それも50歳も年の離れた若者に。

 

 当たり前のエクスキューズを一つ入れるけど、別にその老人が本当に合気道が上手いか下手かなんてどうでもいい。問題なのは自分の合気道をどう捉えているかという自己認識の問題だから。

 

 葛飾北斎は晩年に「物心ついた時から絵を描いてるのに、未だ猫一匹まともに書けない」といってないたそうだし、死に際には「あと10年寿命があったら本物の絵描きになれるのに」と言ったそうだ。

 

 これは多分、合気道に限らず、全ての趣味に言えることで、なにかにのめり込むというのは本当に呪いみたいなものだと思っている。つまり、どんなに修行しても目標には届かないし、かといってやめられもしない。そして死ぬ。人生は何事かを成すにはあまりにも短いから。

 

 はたして俺は「合気道がわかる」日がくるのだろうか?それとも、分からないまま続けるのだろうか?多分後者だろう。それなら、いつか、あの老人のような態度を取れるんだろうか?